「逍遥」

黒部源流域を歩くとき、この言葉がふさわしい。

ゆるやかに時間が流れ、いつまでも変わらない景色がここにはある。


灼熱の尾根を登りつめた稜線には、その疲れを癒すようにニッコウキスゲが咲き乱れていた。


夏の初めというのにチングルマは早くも花穂となって綿毛を風になびかせていた。今年の花は早いようだ。


一日中私たちを苦しめた太陽は、燃え上がるように空を染めて日本海へと沈んでいった。


振り返ると水晶岳は沈黙とともに落陽を見送っていた。

名残を惜しむように、その上の雲がほのかに色づいている。


薬師沢へと向かう道は原始の香りを色濃く残した場所。

山肌はハクサンイチゲの花が盛りを迎えている。


その花弁は透き通るように繊細で美しい。


黒部源流に架かるつり橋を渡って高天原へ向かう。

その昔、モリブデン鉱採掘のために開かれた大東新道は今は黒部川の一端に触れる登山道。

少々荒削りな原始的な道のり。


高天原温泉の更に奥に続く道は夢ノ平と呼ばれる場所で終わりを告げる。

龍晶池は以前と変わらず鏡のように周囲の山を映していた。


天然の野湯は疲れた身体を癒し明日への活力を与えてくれる。

翌朝、高天原峠より明るく開けた雲の平へ。

背後に薬師岳が大きい。

雪解けとともに池塘のそばではイワイチョウの葉が開き始めていた。

みずみずしい若葉。水面に写る空の青。

雲の平へ立つ小さな小屋は嵐の海に浮かぶ一艘の船。


数年に一度、多くの花を咲かせるコバイケイソウ。

雲の平はとくに大きな群落をつくる場所。

北アルプスでも屈指の群落だろう。


祖父岳を巻いて黒部源流へ向かう道を今回初めて通ったが、その移り変わる景色の雄大さに感動を覚えた。


三俣山荘は雲上のオアシス。

黒部五郎の小舎へと向かう道もまた素晴らしい。

最後の日は長い行程。

水晶岳の背後が茜色に染まった。

黒部五郎岳のカールは奇跡のように完成された箱庭である。

岩と雪に取り囲まれ、清廉なせせらぎがその間を流れている。

ここでも白い花が斜面を覆いつくしている。

神岡へと下る飛越新道は広々としたたおやかな尾根。

多くの湿地に池塘が散りばめられた別天地。

黄色いキンコウカの花がどこまでも広がっている。

手入れの行き届いていない木道はまるでアスレチック。

泥道で有名なところだが連日の日照りでカラカラに乾いてとても歩きやすくなっていた。

すこしでも雨が降ったら長靴必携の困難な道になるだろう。

強い日差し。爽やかな風。たくさんの花たち。原始の森。素朴な温泉。

心に残る夏のそぞろ歩き。