前穂北壁を目指して奥又白池のほとりで幕を張りました。
人にはそれぞれ憧れのルートや気になる場所があって何か理由はなくても惹きつけられてしまうことがあるのかもしれません。
あるいはそもそも理由というものは後付けであって、自分自身を納得させるためのものにすぎないとも考えられます。
標高2500mの岩壁に囲まれ、周囲から隔絶されたかのような場所にある奥又白池はロケーションであったり、静けさであったり、紅葉の美しさであったり、多くの魅力に満ちている場所で当然訪れる理由はそこにあるわけですが、もっと深層を突き詰めていくと本当は純粋に名前の美しさに惹かれているなんてことが真相であったりしするのではないでしょうか。
麓からはうかがい知ることのできない神秘の池。
周囲の雪渓が消えてもなお、満々と水を貯めている。
日本の山岳史を彩ってきた物語が多く残る前穂東壁。そして四峰正面壁。
周囲の樹々は色付き始めて夏の終わりを告げていた。
雪渓の状態を偵察に出かける。
秋が近いというのに未だ多くの雪渓が残る。
未明まで天幕を雨粒が叩いた。
日の出が近づくと雨は上がり山頂を隠していたガスは取れていくかのように思われた。
雪渓の消えた場所はグズグズのガレ場で一歩踏み出すごとに足元が崩れていく。
見るからに悪層の前穂東壁・北壁。
C沢からインゼルを越えてB沢へ。懸垂下降を交えて降りたつ。
濃い霧に覆われ北壁の全体像は望めない。
周囲の岩は少し触れるだけで崩れるような状態だ。
霧は一向に晴れることなく、岩は乾く気配がない。
日の当たらぬ北壁のムードがそうさせるのか、何とはなく嫌な予感が漂う。
どうやら我々は今回、北壁に歓迎されていないようで取り付き目前で元来た道を戻ることになった。
といっても道と呼べる代物はないのだが…。
心を残しながら天幕をたたんでいると、にわかにガスが退いて山頂付近が顔を出した。
それも束の間で、再び姿を隠してしまった。
そして、私たちが山を下りるまで厚いガスに覆われたままだった。